時の為政者はユタを目の敵のように弾圧してきた。
社会の混乱の要因をバッコするユタの活動に求め、結果として権力に対する批判をそらそうとしたのであろう。
向象賢は『羽地仕置』でユタ・トキを禁止(1673年)。
首里赤田村のユタ、夫とともに斬罪(1712年)。
蔡温は『教条』でトキ・ユタを禁止(1732年)。
ユタの医療行為禁止(1884年)。
琉球新報でユタ批判(1898年)。
那覇署の「ユタ征伐」(1912年)。
特高警察の「ユタ狩り」(1938年)とつづく。
このようなユタ弾圧の理由は「人心を惑わし、社会の混乱を引き起こす」というものである。ところがどっこい、沖縄社会からユタが消えたためしがない。ユタの存在を認める一定程度の勢力が必ずあり、社会の要請があるからにほかならない。
ユタと聞くだけで、マユをひそめる御仁も多いのは確かだが、そんな彼らも、沖縄の祖先祭祀にユタ社会の考え方がどの程度反映されているかを知ろうとはしない。
〔次回 9月24日|死者を弔うのは〕
ユタの禁圧
参考書籍:
カテゴリー: ユタグトゥ(ユタ稼業)
タグ: ユタ狩り, 羽地仕置
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