古く「太陽が穴」に隣接すると考えられていた知念・玉城・佐敷・大里(現与那原を含む)の旧四町村を東四間切また東方と称した。
時の国王は聞得大君、司雲上らをともなって隔年一次(一年おき交互)に2月の麦のシキョマ(初穂儀礼)には久高島へ、4月の稲のシキョマには東方の井泉や御嶽などを巡拝して、国土の安泰と五穀の豊穣を祈願した。これが後の「東御廻り」の原型となったとされている。
東方(前記の四町村)に点在する聖域空間を国王自ら巡拝することに端を発した習俗といえ、「東世御廻り」とも称される所以でもあろう。
とはいえ、東御廻りの起源を明確に記した資料はなく、断定はできないのが現状であろう。ただ『中山世鑑』には17世紀の中期、国王が知念・玉城を親拝したと記録されており、起源についてはそれよりさかのぼることは確かなようである。
〔次回 11月3日|士族層による門中神拝み〕
東御廻り その2 東四間切への巡拝
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